昭和46年5月31日  朝の御理解


  御神誡一「物事に時節を待たず苦をすること」

  物事、御事柄ということですね、物事、様々な事柄、それをここでは御事柄と、ね、時節を待たず苦をすることと、御、御事柄をその時点、時点において、え~、大切にして行くということ、それを大切にしない、時節を待たない、そこんところに、え~焦りを感じる、思うようにならないとすぐ迷う、失ってしまう、そこのところを、これは、もう頂けんのではなかろうかという風に、思うて、言わば信心の手を緩める、そこに、いわゆる苦をすることとおっしゃる、何時までもその苦を、何時までもその苦しい事が続くということです、ね。
  信心は迷わず失わずせかず緩めず、しかもそれは有り難くということをです、御、御事柄だけではありませんけれども、これは物事とありますから、ね、いわゆる、御物事と頂かなければ、物事じゃない御物事、御事柄、神様には神様の、いわゆるご都合がある、そこで、新規の熟するのを待つのである、新規熟する、新規熟する、間を、どういうことになるかと言うと、いわゆる有り難くということになるのです、ね、ここのところを私共が迷うたり失うたり、ね、せかせかしたり、とい、かと言うと緩めたり、するところにですね、新規が熟しかかっておるのがいわゆる熟しすぎて、例えば、あ~何て言うですかね、まあ熟し柿のようなもんです、丁度良い頃合いというものを頂き止めきらんのです、その丁度良い、い~時期というものがです、ね、今私が申しますように、迷わず失わずせかず緩めず有り難くという生き方で行きよらんとですね、そこんとこをピシッと頂き止めることが出来るのです、ね。
  「時節を待たず苦をすること」と、もう時節が到来、という時、もう間近という時、迷う、失う、ね、と言うて、まだまだその新規熟するには至らない、まだ柿で言うなら、渋い、青い時、それにさわっ、もうもぎってちぎって食べようというようなですね、いわゆるところに何時も渋い思いをせなきゃならんのだ、ね。
  私今日御神前にね、出らせて頂いてね、う~ん最初頂いたことは、金という字ですね、金光大神の金光、金という字、金、金という字をこう頂いて、一番下のこの棒がないとろろを頂いた、ね、金という字ではあろうと思われるけども、後一番下のこの一棒が、無い限りそれは金にはなりませんよね、皆がお金を必要じゃないけどもお金、はぁここにお金があったらお金があったらと思いますよね、ならそういう例えばお金に不自由しないほどしのおかげを下さろうとする働き、また私共はそれを願う、金銭のお繰り合わせならお繰り合わせを願う、ただその時その時のお繰り合わせじゃない、言うなら億万長者にもなりたい、ね、例えばそういう願いを私共は持っておる、ね、それに一生懸命なされながら信心をさせて頂いて、その金という字の、もう後一番下の一の字を蒙ってくれば、金になるというところをそこのところで、迷う、失う、ね、せく緩めるというようなことになって、来ておるように思う、だから、(?)互い違いになって行く、ねえおしい、おかげを頂く言わばチャンスは、何回も何回もあったに違いはない、けれどももうチャンス到来という、例えば寸前に、信心を緩めておる、または迷うておる、いや酷い者になるとそこで「これはとても私共難しか」っちいうことに投げてしまう、ね、失ってしまった、これではね、私は今日はこの、「物事に時節を待たず苦をすること」と、ね、何事にでも一つの、もっ、時期というものがあると、ね、例えば人間の運命といったような事でも、一生の内に何回かは幸運というものが必ず到来するという誰でも、そういうとこを例えば天地の親神様は、平等におかげを下さってあるわけなんだけれども、こちらの頂き心が悪い、到来しても、その時期を失してしまう、流してしまう、まずは無念のことである、神様も残念に思われることであろう、信心とはね、だからそういう時期をね、失しんですむ、無くせんですむよう、に、いわゆる信心生活を求められるのである、ね、そこで(?)迷わず失わずせかず緩めずというような、例えばいかにも厳しいようにありますけれども、その間をです、私は信心が楽しいもの、有り難いもの、になっていないから、迷うのです失うのです、せくのです緩めるのです、信心が有り難いものになってこないから、ね。
  信心のみ教えというものはね、そういう一つの功徳があるです、どのような場合にでも有り難くさせずにはおかんという内容、働きを持っておるものです、教えというものは、ね、なるほど言わば、今が苦労の真ん中かいなというように、例えば修行の真っ最中でありましてもです、これはまあ私共のことでごじますけれどもです、そういう中にです、ね、私はどこからこういう喜びが有り難いものが湧いてくるだろうかと自分自身思うくらいに有り難かったです、ね、信心の道と言い、教えというものはです、そういう、言わば不可思議な、言うなら霊徳とでも申しましょうか、ね、そういう働きを、現すだけの内容を持っておるのがみ教えなのである、ね。
  「物事に時節を待たず苦をすること」、ね、焦っちゃならん、緩めちゃならん、迷うちゃならん、勿論それを失うてはなおさらならん、ね、お願いをする、神様の働きが必ず始まってくる、ね、その神様の働きをです、私共は、ね、御事柄という風に頂くのである、おかげを頂きたいと願う、願うから神様もおかげを下さろうとする働きが始まる早速始まる、その事柄というのは、甘い事やら苦い事やら分からんのである、甘いことの時には有り難いけど、苦い時にはどうしてと言ったようなことでは、いわゆる御事柄ということにならん、物事、御物事ということにならん、ね、だからその御物事、「物事に時節を待たず」とこう言う、ね、だからその、御事柄をです、ね、もうこういう事は、あ~、嫌だというような、ことすると、そこが抜けてしまう、ね、おかげがずーっとこうおりなされていきよりますはね、丁度かすりおるようなもんです、それを、そこんところを頂きませんもんですから、そこんところだけは、柄が狂うてくる、ね、もう本当に厳密と言うならね、そのくらい厳密に行かにゃいかんです、言うならそんなに厳密に行くということは難しいことかと言うと、もう実を言うたらそこを狂わせることの方が実は難しいんです、信心っていうのは、ね、問題はそこんところが楽しゅうなり有り難うさえなってくれば。
  昨日午後の、奉仕をさせて頂いておる時でした、う~ん★「信心合楽」ということを頂いた、信心合楽、信心とは神と人と、ね、合楽はこの合楽教会の合楽です、信心ね、こういう、この「信心合楽」神と人と、共に楽しむ、まあいうような意味でありますね、よく私が「信心共栄」ということを申します、神と人とが共に栄えて行くという道なんです、金光様の御信心、ね、だからもう神と人とがです、そういう共に栄えて行くその元というもの、そのもう一歩前のところを、を私は信心合楽と、風に頂いた、ね。
  昨日、おぉはぎの教会の、総代をしておられる市川さんと言うて、丁度一年前ぐらいにここで筑水の連合会信徒会があった、その時に私が一番、終わった最後に、一口、まあ二十分あまりという、私は覚えませんけれど、あまりお話しをした、挨拶代わりのお話をした、「もうそれが私の頭の中から心の中から外れません、あの二十分間のお話が私の心を捉えて外しません」ね、何か知らんそれを思うとです、もうとにかく心が合楽に向いておる、最近仕事の上で、え~、だいたい元あちらの郵便局長をしておられた、その、それをまあ定年で止められてから、まあ暇が出来られたわけですから、もうこの頃は一週間以内づつお参りになってくる、参って来ると言うても、ただ参ってくるだけじゃない、あそこでテープをやっぱり、四回多い時には五回ぐらい繰り返し繰り返し聞かれる、三十分かかって二時間半かかる、そして御祈念をする御理解を頂く、そして私に一目合わなければ、まあ帰られんというような、その、もう七十ぐらいのおじいさんです、昨日も参っておられました、ね、私はね、信心合楽ということはそういうようなことじゃなかろうかと、お参りすることが楽しゅうてたまらん、御理解を頂くことが楽しゅうてたまらん、もうそれこそ合楽の神様はこうこう手招きしざるごとある、ね。
  私はそういう時代をですね、信心合楽という風に、ね、神様と人との間がです、もう、ね、合い合うことの楽しさ喜ばしさ、ね、それが募りに募ってくる時にです、私共はもう暑いも寒いも感じんようになります、これはいわゆる男女の間のことですね、いわゆる恋愛感情といったようなものによく似ております、誰が何と言ったって、もう後ろへ退くだんじゃない、ね、誰かが止めれば止めるほど、中に水を差す人があればあるほどに、それは激しい勢いで、ね、合い合うことを楽しもうとする、ね、私は信心はね、そういう、言わば合楽に、もうあっちはぼうけっちゃるという風な、よう言いますね、そのぼうけさせるような内容を、私はみ教えというものは持っておると思います、まあ言うなら、合楽にはそういうものがあると思う、だからそれに触れるところまでお互いが信心さしてもらわにゃいかん、ね、そういう私はおかげを内容として頂く時にです、ね、いわゆる、ね、時節を待つことが苦にならんのです、ね、だからおかげはいわゆるやはり早い道はならん、せいちゃならん急いじゃならん、勿論迷うことも失うこともなおさらいけない、ね、私共がね、御、御物も勿論ですけれども、その御事柄、ここでは物事と言うてある、「物事に時節を待たず苦をすること」、物事に時節を待たずに急いだり迷うたり失うたりするとね、また苦、苦をすること、苦労は続くのである、ね、どこにどいう神様の御神意があるやら分からんのですから、そこをね、目細う、目の詰まった信心をするということはね、ただ一生懸命頑張って参ってくるということもありますけれども、その一生懸命お参りをさして頂いておる内に、一生懸命み教えを拝聴させて頂いておる内にです、心の中が踊ってくる、躍動してくる、喜びでいっぱいになってくる、時節を待つことが、さほど苦にならなくなってくる、ね、それこそ、ね、もちっと苦労ばしてみたいというような心すら起きてくるのですよ、皆さん信心の有り難いのはそこだと思う、ね、そこんところに私は、信心合楽、ね、そこんところの土台ががっちり出来たところにです、ね、信心共栄の実というのは、そこを土台として上がって行くのです、現されてくるのです、だからまず何と言うてもです、信心合楽というところのね、一つの妙味と言うか、味合いをね、味合いして頂くところまでがんばらにゃいけません、ね、迷いが起こる、もう止めようかと思う、かと言うと、それこそヤーヤー言うて願う、神様には神様のご都合がある、いわゆる新規熟するのを待つのである、そこんところを例えば、もうそこに新規が熟しようとしておる時に、ね、緩めたらどういうことになるでしょう、いわゆる、ね、熟し柿が丁度良い具合に熟しておるのが、熟しすぎたら、落ちてしまうじゃないですか、からと言うてヤーヤー言や、まだ渋の内にちぎらんならんということになるじゃないですか、丁度良いという、いう時が必ずある、ね。
  私は昨日、お~青年会長が、東飯塚教会で、え~、北九連の幹部研修会があったんです、こっから青年会長であります嘉郎さんがまいりました、一晩泊りで、昨日夕方帰ってまいりまして、その報告を受けさせて頂きながらです、講師は大久保先生、また教務所からも教務所長がみえておられた、教務所長のお話はこうでした、大久保先生のお話はこんなお話がありましたという話を聞かせて頂きながらです、ね、まあ青年向けの、お~、信仰と、医学とか科学とかといったような、まあ難しい学理的な、お~お話やらでもあったらしいですけれどもです、そこんところを、を、棺応答の時に誰も、手を上げて訪ねようともしないから、嘉郎さん手を上げて質問した、ところがそこには回答が与えられなかった、実は私は合楽でそこんところを十分頂いておるから分かっておったんですけれども、そこんところを期待しておったのですけれども、そういうご返事が頂けなかった、というのはどういうようなことであろうかということでございました、ね、そこに回答が与えられないというのはどういうことであろうかと、そういう私は話しを聞きながら、思わせて頂いたことですけれども、ね、幹三郎が、あ~、あのように神乍らに、富永先生が、あ~、出向いて来て下さって、ここで診察をして下さった、それで、え、医大に先生の、お~、後輩の方のお医者さんに紹介をして下さったり、診察に連れて行って下さったり、いよいよ手術といったようなことになってきて、ここで、丁度お~ひと、高芝さんが夕方お参りし合わせておるとこに一緒になった、それで応接間で、言わば、え~、高芝さんが立ち会いの元に、診察を受けたわけです、色んなお医者さんのお道具を持ってきておられたけれども、もうお道具を使われることもなかったもう見てからね、見た途端に、富永先生の顔色が変ってしもうた、だから高芝さん、はぁ~っとこう自身も思うた、診察を終わられて私は控えにおりましたら、控えにやってみえられまして、私にどういう風に言うようすぐないというような顔をしておられましたから、「本当にご苦労様でした富永先生、どんな風でしょうか」え~、やはりとても一日も早う、おぉ手術をなさること以外にはもうありますまいと医者の立場から言うと、と言われる時に私はこう申しました、「富永先生もう、一番のチャンスですよって、今が、時期です、丁度良い時期です」それこそ、(?)でも狂うたような、(笑)、もう医者としてはもうそれこそ、自分自身が顔色の変るぐらいに、これはもう手後れと思うておられるところに私が丁度良い時期だとこう言う、「はぁそうですか」と言うておられまあ、あちがもし信心のない、私と関係ないお医者さんだったら「お前馬鹿じゃなかか」っち言うちから私が言われたに違いないです、けども相手は日頃お取り次ぎを願っておる先生なもんですから、先生どげなこってん言わっしゃると思うたけれども、「ああそうですか」と、言うてまあ聞いておられたけれども、ならいよいよ手術ということになって、手術をして、言わばもうそれこそ、あちらのお医者さんでも全部がもう99%は駄目だと、富永先生をして、もうとにかく残っておるものは一つしかない100の中に、その残っておるものはもう奇跡を待つ以外にはない、「お母さんしっかりお願いして下さい、御祈念して下さい」と言うて富永先生が言われるくらいじゃった、ね、ここまでも放からかして、こういう病気をそれこそ「親父の顔が見たい」っち、富永先生じゃない、あの田主丸の小野先生が見舞い行った時に、あちらの先生がそう言わっしゃった、けれども実際、ならあの献身が終わって、手術にかかられた時には、どうですか、もうそれこそ上と下とが一緒になってしもうておってから、それこそ、あの(?)がバァッととるように固まってしもうとるそこんところ、だから言わばね、その病名までも、かいにはならんばってん、病名の付けようが無いっちいうことじゃったと事実は、ね、肉腫だ肉腫癌だと、私その時のことを思わせて頂いてですね、どうしてそのようなことが私は言えたじゃろうかと思うのです、御神意を頂いてから私は言うたことじゃないです、けれども私自身の心の中に信じられておったことがです、確信を持っておったことはです、ね、こういう神乍らな働きがここに起きて、手術、言うなら、医者に、の手を煩わさなければならないということになってきたのですから、神様が一番良い時期を、与えて下さったとより他に思えなかったんです私は、どうしてそういう風に私が思えたかということを昨日私改めて思うてみましたです、それはどういうことかと言うと、私がもうね、常日頃に、もうこれは合楽の信心の生命だと、私は思いますけれども、成り行きを大切にするという事、御事柄を大事にするということ、ここで言うならば、御物事を、物事に時節を待つ、何時も私は神の、神様のその時期と言うか、新規到来というところを頂いてきたということ、だからそういう場合に直面した時に、「富永先生これは一番の、丁度良い時期ですよ」とまあ言えるようなことが、出けたということになります、それを確信と言う、ね、この確信には神様のおかげ下さられんはずがない、ね、いかにその物事をね、「物事に時節を待たず苦をすること」とおっしゃるが、ね、その物事をね、待つと言うか、その物事そのものを御物事として受けるということ、ね、その時点でその事をです、ね、合掌して受けるということ、この事は苦い事だから嫌だ、甘い事なら受ける、そういう事ではなくて、甘いもなからなければ苦いもない、それをね受けるということ、そういう例えば私の信心生活がです、ね、そこんところを自分の信心の命のように大事にして来たこと、成り行きを大事にするということはそういういよいよん時にそういう素晴らしい成果を上げることが出来るということ、ね、御理解72節に、「人間を軽う見な、軽う見たらたおかげはなし」と仰せられる、これは人間だけではありません、もう軽う見たらおかげはなしとおっしゃるのですから、断言しておられます、ね、だからこれ人間だけじゃありません、ね、御の字を付けるほどしに神様が私に下さった事柄であるものその事柄をです、御事柄として受ける時です、軽う見ない時です、ね、おかげがあるということになるのじゃないでしょうか、人間を軽う見たらおかげはない、これは人間だけじゃない、御事柄、御物、それを粗末にするようなことではおかげはなしということになる、だからその御事柄をです、ね、軽う見らずにそれを、ね、慎重に低調に、それを頂いていく、有り難く頂いていくということがです、おかげがあるということになるのです、お互いがいかにも目の詰まったような信心しよるけれどもです、ね、有り難く頂いたり頂かなかったりしよるところに、おかげが長引くんですよ、ね、そして私が今日、ね、御神前で頂いたように、お金、金という字、金という字ですね、金という字が一番最後の一、一棒がない、もう一押しというところで迷うとる、もう一つこう書きゃぁ金の字になるところをです、おろそかにしておる、迷うておる、ね、失うておる、そこに何時までも金というおかげにならんのです、金ということはここでおかげということでしょう、ね、木っ、もういよいよ熟するという時に、もうおかげは頂ききらんとじゃろうかと言うて、信心を緩めておる、何故かと言うと、結局信心合楽のまだ味合いが出ていないからなんだ、信心の喜び、ね、そういうものがです、まだしっ、ね、おかげの喜びは分かっても、信心の喜びが分かっていないところから、機を逸してしまうというようなおかげ、ただ断片的なおかげだけに仕舞えてしまって、ね、新規熟する、いわゆる神様が下さろうとするおかげが熟する、その熟しておる時期を待ちきらん、またはそれを飛び越えてしもうておる、というような結果になるの、なっておるのじゃないでしょうか、ね。
  自分達の信心を一つ振り返ってみて、「ははぁあの時分におかげが飛び越えとったつじゃろう」といっちょ思うてみて下さい、「あん時あそこは私が腹かいて受けたもんなぁ」と、あん時におかげはそこば飛び抜けとる、ね、「ははぁあん時にもうこりゃぁおかげは頂ききらんのじゃなかじゃろかと思うてから信心を緩めた時があったが、ははぁあん時に、言わば、ね、おかげがそこを通り抜けとるとじゃなかじゃろか」と思うてみてごらんなさい、「いやそげんいう厳密に信心ちゃ難しか」、決して難しことじゃない、例え有り難いという、いわゆる信心合楽の、境地を開くことに精進さして頂くなら、ね、それこそ誰が何と言うてもです、ね、水差すとがあるならあるほどに燃えて行く、障害があればあるほど元気な心で乗り越えていく、そこに合い合う楽しみ喜びというものを、を感じさして頂けるほどしの信心、信心合楽、それは信心共栄の、言わば基礎になるもの、その前提としての信心、信心共栄の実が上がりますようにと、いくら願ったところで、私がおかげを受けることが神様も喜んで下さるということに、なるようなおかげを頂くためにはです、まず信心合楽のおかげを頂かしてもろうて、ね、行くところに、ね、ばっちりとおかげを受け止めることが出来る、もう一押しでおかげになるという時に信心を緩める、やれやれが出る、おしい、ね、こんなにおしいことはない、そこにですね、ね、一生かかっても、おかげとはすんごうてばぁっかりおるような、ことになってきて、ね、信心の本当の有り難さというものに、触れられんですむようなことであっては、ね、神様に対しても、また自分自身も、こんなに馬鹿らしいことはない、おかげを頂きたいと切にお互いが願うのですから、神様もやっぱり切にそこんところを、を、取り上げて下さり、そういう働きが始まる、それが御事柄の上に現れてくる、ですからその御事柄を、ね、御物事をです、ね、ただてれっとして待つだけではなくて、それを有り難く頂いて行くという、信心を身に付けさして頂かなきゃならんということになりますですね。
  どうぞ一つ、この金という字が誰もいらんっち言うのはおらんはずです、そのここまでは書いてから、点々も打ってから、あんあい、最後にこればいっちょこうすりゃ金になるところでです、ちゃんとまたダタァーっと落としてしもうておる、こんな残念なことはない。
                                                                        どうぞ。




入力者:誠輝